視覚の考古学:ジョナサン・クレーリー『観察者の技術』

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視覚の考古学:ジョナサン・クレーリー『観察者の技術』

それは線形の「発明史」ではなく、「カメラ・オブスキュラ・モデル」から「身体化された視覚」への決定的な転換を再構築する、系譜学的な探求である。

米国の研究者ジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)は、1990年に『観察者の技術』を出版し、19世紀の生理光学、視覚装置、産業生活から出発して、「近代的観察者」がいかに歴史的に「製造」されたかを追跡した。本書は、実験科学(残像、主観色)、装置(ステレオスコープ、ファンタスマゴリア、ゾートロープ)、都市のリズム、商品文化を結びつけ、近代的な視覚様式が自然に進化したのではなく、知識=技術=社会によって共同で形成された結果であることを明らかにした。

中核的観点:「観察者」はいかに製造されるか

クレーリーの論証は、主に4つの道筋に沿って展開される。

1. カメラ・オブスキュラから身体へ:視覚は透明な「窓」ではなく、製造された知覚である

初期の視覚モデルは「カメラ・オブスキュラ」(固定的、非身体的、単一視点)と同一視されていた。しかし19世紀の生理光学と心理物理学は、視覚が主観性(残像、運動残効、注意の閾値など)を持ち、眼と神経系がイメージの構築に積極的に関与していることを示した。結論:観者は自然に与えられたものではなく、歴史的に生成された「技術的主体」なのである。

2. 装置による訓練:ステレオスコープ等が「注意—分節—合成」を身体に植え付ける

新しい視覚装置は、連続的な世界を制御可能な「離散的な断片」(コマ、シャッター、断片図像)へと切断し、それを観者の生理的メカニズム(残像効果など)によって「合成」させ、運動や立体の錯覚を生み出させた。これらのメカニズムは、近代的観者の「集中」と「気晴らし(分心)」の能力を訓練し、映画とその後の視覚メディアの知覚的条件を準備した。

3. 注意力の規律化:観ることは管理可能な労働となる

産業化と都市のリズムは、身体が「気晴らし」と「再集中」の間を迅速に切り替えることを要求した。心理学、教育、工場の規律は、「集中」を測定可能で矯正可能な「資源」へと変えた。観ることはかくして生産的かつ従順なものとなる。それは仕事の一部であると同時に、制御された習慣でもあった。

4. 近代(モダニティ)と商品視覚:市場と都市の流通論理の受容

ショーウィンドウ、広告、印刷、写真は、モノとイメージを交換可能な「単位」へと転換した。観者の身体は、速度、断片化、再結合のリズムの中で、対象を識別し、欲望し、消費するように調整された。近代的視覚とは、純粋な美学ではなく、経済=技術的条件の内面化なのである。

価値と影響:分析地図として、そして系譜の礎石として

『観察者の技術』の不朽の価値は、二つの層で理解できる。

  • 方法と道具としての価値:本書はイメージを理解するための3つの鍵を提供する——(a) 観者の歴史化:視覚を天賦のものとせず、科学=社会的条件からその形成を説明する。(b) 装置と身体の連動:装置を単なる再現ツールではなく、知覚を訓練するメカニズムとして捉える。(c) 注意力の政治学:「集中/気晴らし」を、メディアと労働秩序を読み解く鍵とする。
  • 長期的影響:本書は視覚文化(ヴィジュアル・カルチャー)とメディア考古学の礎石的テクストである。ソンタグの文化批評、バルトの情動論、セクーラ/タグの制度論に対し、知覚史的背景を提供する補完的関係にある。その視点は、スマートフォンの画面、無限スクロール、アテンション・エコノミーに至るまで、19世紀の「観察者訓練」の現代的変種として、今日まで続いている。

『観察者の技術』が我々に思い起こさせるのは、我々が「いかに見るか」は、すでに装置と制度によって訓練され形成されているということ、そして、イメージを理解するためには、まず観者がいかに製造されたかを理解せねばならない、ということである。

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