W・J・T・ミッチェル『イメージが望むもの』:イメージの生、愛、欲望
これは方法論的な「擬人化」という道具である。イメージを「愛を求め、要求し、挑発する」社会的アクターとして一時的に扱うことで、我々とイメージとの間の愛憎と交換関係を読み解く。
シカゴ大学の批評家 W・J・T・ミッチェル(W. J. T. Mitchell)は、『ピクチャー・セオリー』に続き、2005年に『イメージが望むもの』を発表しました。本書は焦点を「イメージとテクストの関係文法」から、イメージの社会的な「生」と「能動性(エージェンシー)」へと進めます。宗教的聖像、広告、政治プロパガンダ、ポップカルチャー、現代アートといった豊富な事例を用い、「イメージをアクターとして扱う」ことで、その欲望、権力、コンフリクトを理解する分析的枠組みを構築します。
中核的観点:イメージの欲望と権力
ミッチェルの論証は、主に4つの道筋に沿って展開されます。
1. イメージの能動性:「アクターとしてのイメージ」という有益な仮説
イメージに魂があると信じる必要はないが、「見られたい、愛されたい、流通したい」とイメージが「望んでいる(want)」と仮定することは、人間とイメージの関係における権力網を明らかにするとミッチェルは主張します。重要なのは、イメージの「意味(meaning)」だけでなく、その社会的効果を駆動する「欲望と要求(want)」です。
2. アイドル/トーテム/フェティッシュ:イメージ権力の3つの社会形態
イメージはしばしば「アイドル(偶像)」(崇拝または破壊の対象)、「トーテム」(集団的アイデンティティの標章)、あるいは「フェティッシュ」(欲望と価値が投影されるモノ)として扱われます。ミッチェルはこの三分類を用い、崇拝と「偶像破壊(イコノクラスム)」の循環を説明し、イメージをめぐる争奪が、集合的感情と政治的秩序をめぐる争奪であることを指摘します。
3. picture / image の再明確化:物質的担体と流動的形象の相互形成
picture(彫像や写真など具体的な担体)と image(異なる担体を移動可能な形象)は、社会の中で互いに牽引し合います。具体的な「モノ」は、抽象的な「形象」に、攻撃されたり、祀られたり、販売されたりする「場所」を与えます。一方で、形象の複製可能性は、モノに再生能力を付与します。結論:イメージの権力を理解するには、モノと形象の両方を追跡せねばなりません。
4. メタピクチャーと代弁:イメージ自身による「イメージ論」
自己言及的な「メタピクチャー」や、イメージがナレーションやメディア、展示によって「代弁される」プロセスは、理論が生成される現場です。ミッチェルは、「誰がイメージの代わりに語っているのか」(国家、ブランド、芸術制度)を注視します。なぜなら、その「代弁権」こそが、イメージが何を望み、何ができ、いかに扱われるかを決定するからです。
価値と影響:解読学から関係論へ
『イメージが望むもの』の不朽の価値は、二つの層で理解できます。
- 方法と道具としての価値:本書はイメージ学を「解読学」から「関係論」へと転換させ、4つのツールを提供します。(a) 能動性の仮説:イメージが「何を望むか」を問う。(b) アイドル/トーテム/フェティッシュの三分法:偶像破壊やブランド戦略を分析する。(c) picture/image の二重追跡。(d) 代弁分析:誰がイメージのスポークスマンであるかを特定する。
- 長期的影響:本書は『ピクチャー・セオリー』と対をなし、視覚文化研究に「現代イメージの人類学」的視角を提供しました。偶像破壊やカルチャー・ウォー、SNSのミーム、政治的抗議、公共彫像の論争などを分析するために広く応用されています。アルゴリズムが介在する今日、ミッチェルの問いは「イメージはどのアルゴリズムに理解されたいか?」へと翻訳されます。
本書が我々に思い起こさせるのは、「このイメージは何を意味するか」と問う前に、まず「それは我々に何を望み、我々をどのような関係に導こうとしているのか」を問うべきだ、ということです。


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